左京区

西雲院の御朱印 – 法然ゆかりの「紫雲石」がある金戒光明寺塔頭!

京都市左京区の西雲院の御朱印
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こんにちは、nobo(@nobo_kyoto)です。

浄土宗大本山「金戒光明寺」を奥に進んでいくと、塔頭の「西雲院さいうんいん」が現れます。
混雑する金戒光明寺とは違い、ひっそりとした雰囲気のお寺です。

この記事では、西雲院で頂ける御朱印を中心に、法然上人ゆかりの「紫雲石しうんせき」や歴史、会津藩殉難者墓地などについて詳しくご紹介いたします!

京都市左京区の西雲院

西雲院の御朱印について

御朱印の基本情報
  • 御朱印の種類:通常1種類
  • 御朱印の朱印料:300円

西雲院では、通常1種類の御朱印がいただけます。

紫雲石 萬日寺の御朱印

西雲院で通常頂ける「紫雲石 萬日寺」の御朱印です。

京都市左京区の西雲院の御朱印
御朱印の内容
  • 墨書き
    右側:奉拝
    中央:紫雲石 萬日寺
    左側:日付、黒谷 西雲院
  • 朱印
    右側:専修念佛発祥之地
    中央:******紫雲山、紫雲石萬日寺西雲院
    左側:***西雲院

 

右側の「専修念仏佛発祥之地」や「紫雲石」「萬(万)日寺」の意味については、記事を読み進めてもらうと分かります!

京都市左京区の西雲院の御朱印

朱印はちょっと読めないところが多いです。
気になる・・・。

京都市左京区の西雲院の御朱印

御朱印が頂ける場所

御朱印は境内にあるこちらの建物で頂けます。
インターホンを押すと、お寺の方がとても丁寧に対応してくださいます。

京都市左京区の西雲院

どうやらワンちゃんがいるようですが、残念ながら会えませんでした。
今度の参拝のときは会いたいなぁ。

京都市左京区の西雲院



西雲院ってどんなお寺?

紫雲石

境内にあるこちらの小さなお堂。
堂内には、法然上人ゆかりの「紫雲石」という大石が安置されています。

京都市左京区の西雲院の紫雲石

承安5年(1175)の春、上人は修行地の比叡山黒谷「青龍寺」から京都へ下り、当寺近くにある真如堂を参拝。

参拝後、この地に立ち寄った上人が大石に腰を掛け、夕日に向かって念仏を唱えたところ、西の空から紫雲が湧き上がりました。
紫雲からは金色の光が輝き、あたりは芳香が漂ったといいます。

京都市左京区の西雲院の紫雲石

この不思議な出来事を目の当たりにした上人は、「これぞ念仏有縁の地なり」と決意し、初めて草庵を結びました。

これが浄土宗の始まりといわれ、草庵は後に金戒光明寺となり現在に至っています。

京都市左京区の西雲院の紫雲石

紫雲石は上人が腰を掛けた石といわれており、お堂に守られながら、多くの人々から信仰されています。

京都市左京区の西雲院の百日紅

お堂前の立派な百日紅の木。
ちょうど参拝したときは、花がキレイに咲いていました!

京都市左京区の西雲院の百日紅



歴史

西雲院が創建されたのは、江戸時代の元和2年(1616)。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、連れてこられた「宗厳そうごん」が、金戒光明寺から紫雲石を賜り、この地に草庵を結んだのが始まりです。

京都市左京区の西雲院

宗厳は草庵で「千日」の常時念仏を修し、その次は「一万日」の常時念仏を発願。
宗厳は途中で亡くなってしまいましたが、弟子たちによって引き継がれ、なんと「四万日」の念仏が達成されたといいます。

京都市左京区の西雲院

四万日を年に変換すると…なんと「約109年半」!
1世紀以上も念仏が続いたとは、、、ただただ驚きです。

京都市左京区の西雲院

このような経緯があり、西雲院は「万日寺」とも呼ばれています。

京都市左京区の西雲院



会津藩殉難者墓地

西雲院の東側には、幕末に活躍した会津藩の殉難者墓地があります。

京都市左京区の西雲院の会津藩殉職者墓地

由来については、ちょっと長いですが石碑から引用いたします。

會津墓地の由来

幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
文久二年(一八六二)閏八月会津藩主松平容保公が十四代将軍徳川家茂から京都守護職に任ぜられ同十二月二十四日、家臣一千名を率いて京都に到着、京都所司代・京都町奉行の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒こんかい光明寺に威風堂々と入陣した。
黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衛の地であった。
また、大きな寺域により一千名の軍隊も駐屯することができた。
当寺の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝るつぼと化していたが、守護職となった會津藩の活躍には目をみはるものがあり、翌年八月十八日には激派の公卿を追放し、元治元年(一八六四)六月には守護職配下の新選組による「池田屋騒動」、七月十八日十九日の「禁門の変」の勝利などで治安は回復されてきた。しかしながら會津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間小物などで戦死、戦病死する者が続出した。
そこで本陣の金戒光明寺の山上に二百坪の墓地が整備され葬られた。その数は文久二年から慶応三年までの六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀した。
松平容保公は孝明天皇の御信任厚く禁裏洛中を挙藩一致して大義を明らかにし、會津軍の忠誠は歴史にその名を残した。この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為にこの碑に由来を誌す。

松平 容保公 都の歌会にて御詠

“窓前竹” さす月よ うつるのみかは 友ずりのこゑさへ きよし 窓の呉竹

計352霊の会津藩士が祀られている墓地。
静かにマナーを守ってご参拝ください。

京都市左京区の西雲院の会津藩殉職者墓地



西雲院へのアクセス

  • 京都市営バス「真如堂前」から徒歩約7分

西雲院の基本情報

御朱印の種類 通常1種類
御朱印の値段 300円
御本尊 阿弥陀如来
宗旨 浄土宗
拝観料 境内自由
住所 京都市左京区黒谷町121
公式HP なし