はじめに
こんにちは、nobo(@kyoto_gosyuin)です。
東山の八坂通りに堂々とそびえ立つ法観寺の五重塔。
「八坂の塔」として知られるこの塔は、実は内部の拝観が可能で、御朱印も頂けるんです。
この記事では、法観寺の御朱印と五重塔の歴史や境内の様子などについてご紹介していきます。
もくじ
八坂の塔の御朱印について
法観寺では1種類の御朱印を頂くことが出来ます。朱印料は300円。
墨書きは右上に法観寺の山号である「霊応山」、左下に「法観寺」、中央には「五智如来」と書いてあります。
五智如来については、下の方で説明しているのでぜひご覧ください。
朱印は右上に「聖徳太子御建立 日本最初之寶塔」と書いてある五重の塔、左下に「京都 八坂塔 東山」、中央には「霊應山 法観寺」の印が押してあります。「應」は「応」の旧字体です。

御朱印は拝観受付所で頂けます。
拝観料を納めるときに御朱印帳も一緒に渡し、帰りに受け取る感じです。

八坂の塔の近くには、「インスタ映えお寺」として有名な八坂庚申堂があります。
ぜひ、八坂庚申堂でも御朱印を頂いてみてくださいね。

拝観案内
拝観料は400円。階段がとても急なため中学生以下の拝観は禁止となっています。
拝観時間は10時から16時までですが、天候やお寺の都合により早く閉められる場合があります。
私が訪れたときも15時に閉められていました。
また、法観寺は不定休なので、年中拝観出来るわけではありません。
ですので、参拝前に電話で確認をすることをオススメします。
電話番号:075-551-2417
法観寺の歴史
法観寺の歴史は非常に古く、飛鳥時代の592年に創建されたと伝わっています。
聖徳太子が夢の中で如意輪観音からお告げを受け、国家安泰を祈念して五重塔を建立し、仏舎利(お釈迦様の骨)を納めたのが始まり。
創建当時から法観寺という名称で、他に「八坂寺」とも呼ばれていたようです。


五重塔の歴史と内部
ここからは五重塔についての紹介です。
歴史
現在の五重塔は、1440(永享12)年に建てられたもので、実は今まで3回焼失しています。
1度目は平安時代の1179(治承3)年。
清水寺の衆徒と祇園社(八坂神社)の神人の争いにより類焼。
その後、1191(建久2)年に源頼朝によって再建されました。
2度目は鎌倉時代の1291(正応4)年。
今回は争いではなく、落雷により焼失。
その後、1309(延慶2)年に後宇多天皇の援助を受けた北條貞時や覚海円成らによって再興されました。
3度目は室町時代の1436(永享8)年。
焼失の原因は不明。
その後、1440(永享12)年に室町幕府6代将軍・足利義教によって再建されました。


内部
五重塔の内部は二層まで登ることが出来ます。
五智如来
五重塔の一層には五智如来(ごちにょらい)が安置されています。
心柱の「大日如来」を中心とし、四方に「阿閦如来」、「宝生如来」、「阿弥陀如来」、「不空成就如来」が配置されています。
東方:阿閦如来(あしゅくにょらい)


南方:宝生如来(ほうしょうにょらい)


西方:阿弥陀如来(あみだにょらい)


北方:不空成就如来


心柱
心柱(しんばしら)は、五重塔の中心のある柱のことです。


この心柱は初層の基礎から相輪(屋根にある装飾物)の頂上まで通っており、途中の支えは一切使われていません。
初層の基礎に納めれている「仏舎利」と、頂上に据えられた釈迦の墓である「相輪」を結ぶ動脈とのこと。
壁画
壁には色鮮やかな壁画が描かれています。


昔はもっときれいだったんでしょうね。


階段
中学生以下の拝観禁止の原因にもなっている階段です。
ものすごく急で、角度はほぼ直角。
上りも下りも結構しんどいので、自信が無い方は諦めましょう。。。


二層からの眺め
二層には何枚か窓ガラスがあり、八坂通りなどを眺めることが出来ます。


京都タワーも見えました!


境内のお堂と鎮守社
法観寺の境内には薬師堂と太子堂、2つのお堂が建っています。
どちらも江戸時代に門前の住人の寄進によって再建されたものです。
薬師堂
堂内には本尊の「薬師如来」や「日光菩薩」「月光菩薩」「夢見地蔵」「十二神将像」が安置されています。


夢見地蔵は洛陽四十八願所地蔵めぐりの第39番札所になっています。


太子堂
五重塔の北側にある太子堂。


堂内には3歳と16歳の像が安置されています。


鎮守社・八坂稲荷神社
法観寺の鎮守社である八坂稲荷神社には、八坂稲荷尊天が祀られています。


その近くには木曽義仲公の首塚があります。
木曽義仲首塚(朝日塚)
木曽義仲は、源頼朝の弟義賢の次男で、頼朝、範義、義経兄弟の従兄弟にあたる。
幼くして父を失い、乳父中原兼遠によって木曽(長野県)で養育された。治承四年(一一八〇)に源頼政と養子仲家(義仲の兄)らが反平家の旗をあげるが敗死。これを聞いた義仲も木曽で挙兵すると、北陸から軍を進めて平家の軍勢を次々と撃破し、寿永二年(一一八三)には入京して、朝日将軍と呼ばれた。
しかし、義仲は翌年三年一月二十日、東国から攻め上ってきた範頼と義経の軍勢に敗れ、瀬田(大津市)へ逃れる。ともなってきた兼遠の娘巴や、同じく兼遠の子である今井兼平が奮戦するが、義仲の乗馬が深田に足をとられ、粟津で討ち取られた。三十一歳であった。
義仲の首は京都にもたらされ、二十六日に東獄門脇で晒された。その後、京都に残っていた家来の一人がその首を葬らせ、朝日塚と称したという。出典:京都市の説明看板より


アクセス
- 京都市営バス”清水道”より徒歩約5分
- 京阪本線”祇園四条駅“より徒歩約13分
近くの社寺の御朱印情報









基本情報まとめ
御朱印の種類 | 1種類 |
御朱印の朱印料 | 300円 |
時間 | 10:00〜16:00 |
拝観料 | 400円 |
御本尊 | 五智如来 |
宗旨 | 臨済宗建仁寺派 |
山号 | 霊応山 |
住所 | 京都府京都市東山区清水八坂上町388 |
公式HP | なし |