こんにちは、nobo(@nobo_kyoto)です。
京都市北区・紫野にある「大徳寺(だいとくじ)」。
臨済宗大徳寺派の大本山であり、茶の湯と関わりが深いことで知られるお寺です。
この記事では、大徳寺で頂ける御朱印を中心に、歴史や千利休の死の原因となった「三門」などについてもご紹介いたします!
大徳寺の御朱印について
- 御朱印の種類:通常1種類
- 御朱印の朱印料:300円
大徳寺では、通常1種類の御朱印がいただけます。
本朝無双禅苑の御朱印
大徳寺でいただける「本朝無双禅苑」の御朱印です。
- 墨書き
右側:奉拝、紫野、大徳寺
中央:本朝無双禅苑
左側:日付 - 朱印
中央:*寶**、龍寶**
本朝無双禅苑は、第96代・後醍醐天皇が大徳寺に与えた宸翰「本朝無双之禅苑」にちなむものだと思われます。
私が訪れたときは、新型コロナの影響で書き置きのみの授与でした。
パンフレットも一緒にいただけて嬉しかったです!
いつもは朱印の内容も掲載しているのですが、今回はいくつか読めませんでした。
上の「寶」と下の「龍寶」は分かるのですが、他が残念ながら分かりません。
分かる方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて下さい。
御朱印が頂ける場所
御朱印は境内の「宗務本所」でいただけます。
正面は「拝観できません 関係者以外立ち入り禁止」と塞がれていますが、御朱印の受付だけは行われています。
奥にある庫裏の扉を開けると、お寺の方が対応をしてくださいますので、安心してください。
書き置きの御朱印の保管には、フィルムで挟むだけの「御朱印ホルダー」や差し込むタイプの「書き置き御朱印 専用御朱印帳」などがオススメですよ〜!
大徳寺ってどんなお寺?
歴史
大徳寺の起こりは鎌倉時代の末期。
正和4年(1315)、武将・赤松則村の帰依を受けた臨済宗の僧「宗峰妙超」が、紫野に小院を建立したのが始まりです。
その後、花園上皇・後醍醐天皇から篤い帰依を受けて勅願寺となり、建武元年(1334)には、後醍醐天皇による「京都五山」で南禅寺と並び上刹に置かれました。
しかし、宗峰と対立する夢窓疎石に帰依した足利尊氏が室町幕府を開くと、幕府は大徳寺を冷遇。
足利義満が定めた「京都五山」では、五山の下の十刹9位に置かれ、自ら五山を抜け出しました。
天正10年(1582)には、豊臣秀吉によって織田信長の葬儀が行われ、菩提を弔うため「総見院」が建立されました。
これ以来、武将の塔頭建立が相次ぎ、現在は24もの塔頭が建ち並んでいます。
ちなみに、大徳寺の本坊自体は通常非公開のため、拝観のメインは常時公開している一部塔頭のみです。
三門
大徳寺で有名なのが、こちらの朱色の三門。
金毛閣とも言い、茶人「千利休」の死の原因となったとされる門です。
三門が建立されたのは、室町時代の大永6年(1526)。
連歌師・宗長の寄進によるもので、はじめは1階部分のみが建てられました。
建立から63年後の天正17年(1589)、千利休は三門の改築に着手。
2階部分(金毛閣)を増築し、釈迦三尊や十六羅漢像、そして雪駄履き姿の「千利休像」を安置しました。
この「千利休像」に、豊臣秀吉は「雪駄履きの像の下を通らせるとは何事か」と大激怒。
以前から軋轢が生じてたこともあり、千利休に対して切腹を命じました。
千利休は命令通り切腹を行い、70歳でその生涯を閉じました。
千利休の首は一条戻橋にて、千利休像と共に晒されたと伝えられています。
ちなみに、千利休の死後も秀吉の激怒は続き、一時は大徳寺の破却も検討していたといいます。
最後まで徹底的なのが秀吉らしいですね。
三門内部には立派な天井画もあるみたいなので、一度拝観してみたいです。
ちなみにのちなみに、塔頭の聚光院には、千利休のお墓や利休が作庭したという方丈庭園があります!
特別公開の際に、ぜひ拝観してみてくださいね!
大徳寺周辺の寺社
大徳寺の周辺には、門前のあぶり餅が有名な「今宮神社」、織田信長を祀る「建勲神社」などがあります。
また、塔頭には春と秋に特別拝観を行っている「総見院」も。
記事を参考にして、ぜひ参拝してみてくださいね!
あぶり餅は本当にオススメです!!
大徳寺へのアクセス
- 京都市営バス「建勲神社前」から徒歩約2分
- 京都市営バス「大徳寺前」から徒歩約2分
大徳寺の基本情報
御朱印の種類 | 通常1種類 |
御朱印の値段 | 300円 |
御朱印の時間 | 不明 |
御本尊 | 釈迦如来 |
宗旨 | 臨済宗大徳寺派(大本山) |
住所 | 京都市北区紫野大徳寺町53 |
公式HP | http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/ |